花マガ(淡路花博20周年記念 花みどりフェアwebマガジン)

  • ホーム
  • 【淡路歴史探訪】その4 飛行場と国民皆保険 松帆

【淡路歴史探訪】その4 飛行場と国民皆保険 松帆

  • 歴史

レポーター紹介

投稿者歴じい
性別男性
年代50代
住まい兵庫県淡路市
趣味読書(司馬遼太郎など)
自己紹介淡路生まれの淡路育ち。歴史好きで戦国時代以降、明治の近代化までに興味があります。あまり光の当たっていない「淡路島の歴史や人物」をご紹介できたらと思っています。

飛行場と国民皆保険 松帆(南あわじ市)

 

『○○飛行場跡記念碑』

 


淡路島にも飛行場があった

かつて淡路島にも飛行場があった。第二次世界大戦の戦局も厳しくなってきた、昭和18年11月突然軍の命令で三原平野のど真ん中、松帆村脇田の沖所地区を中心に松帆村から榎並村にかけての180ヘクタール(神戸空港で156ヘクタール)に空港が建設されることとなった。戦局の悪化による物資不足の中、工業地帯の阪神地方を防衛するため、淡路全島に勤労動員が命令された。突貫工事で終戦直前の20年7月に飛行場が完成した。正式には管轄していたのが由良要塞司令部であったので由良飛行場であったらしいがそれを呼称すると軍事機密漏洩罪となってしまうため島民は〇〇(まるまる)と呼びあった。一番たいへんだったのは松帆村沖所の35戸と高屋4戸の住民達であった。いきなり小学校へ呼び出された住民には『一か月以内に立ち退け、立ち退かなければ家屋を取り壊す』という過酷で厳しい軍からの命令であった。先祖伝来の土地から田畑や家屋敷を奪われ、なれない土地への集団移住。土地や家屋の代金は戦時国債で支払われ,敗戦とともに紙切れとなり価値をなくした。敗戦後、国有地の開拓事業として返還された土地は滑走路をつくるため瓦礫や石ころ交じりの山土で埋められかさ上げされていたため、瓦礫を取り除き一枚一枚の田畑を掘り起こしてのたいへんな作業で困難をきわめた。返還されてから50年目の平成6年、住民は先人の労苦を忍び記念碑を建てた。

 

飛行場跡 この付近に幅30メートル、長さ1000mの滑走路を中心に飛行場があった



滑走路のコンクリートを基礎に側溝の蓋を塀に利用した家

 

滑走路に貼られたコンクリートを壊して取り除き、埋め立てられた山土を掘り返し田畑を復元する作業は困難を極めた。剥がしたコンクリートを家の基礎に

立ち退き前の村の家並みを書き残し子孫に伝える


 

国民皆保険や国民皆年金制度の創設者


 大内兵衛  (法政大学HOSEIミュージアム提供)
 

そんな立ち退きを命じられた住民の中に東大教授で日本を代表する経済学者の大内兵衛の生家もあった。明治21年、脇田村では裕福で教育熱心な農家の7男として生まれた。長男は三原郡首席書記を務め次男は初代八木村村長、三男は海軍中将から退役後三菱重工重役となり三菱電機を創設した。兄らは隣村の掃守村に隠居してきた頼山陽の高弟、岡田鴨里から教えをうけたのであろう、兵衛も中学入学前に頼山陽の日本外史がよめた。又洲本中学時代も教師や後に著名になっていく旧友にもめぐまれた。兵衛は東京帝国大学法科に進み首席で卒業すると大蔵省に入り、東大に経済学科が創設されると准教授としてむかえられた。戦前は軍部による言論弾圧の標的となり、失職、復職、逮捕、無罪、失職とくりかえしたが、本場ドイツでマルクス学を勉強する機会も得た。戦後は東大教授に復職し、後に都知事となる美濃部亮吉など人材を育てた。鳩山内閣、吉田内閣での大蔵大臣への就任を固辞し日銀顧問や法政大学学長を務めた。特筆すべきは社会保険制度審議会初代会長として国民皆保険や国民皆年金の創設を答申したことだ。当時の社会保険制度審議会は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の意向で設置され総理大臣に勧告する強い権限をもっていた。昭和24年5月より45年3月まで委員を務め、その内の2年間以外は会長であった。マルクス主義者でもあった大内兵衛は『最低限度の生活』とは何かを念頭に社会保障制度の充実に取り組んだ。昭和31年11月に『医療制度の改善を行い、国民皆保険体制を確立する必要がある』と勧告すると、厚生大臣,大蔵大臣、に直接面接すると要望を出し、関係団体を集め説明会をおこない、自民党幹事長や社会党委員長に会見し直接趣旨説明して、32年1月には総理大臣と会見し制度実現のため一段の努力を要望した。それが、私達日本国民が現在享受している、暮らしていく上での安心と豊かさの基盤となる健康保険と年金の制度につながった。これは、人々の幸せとは何かを模索し、ずば抜けた頭脳と統計学の第一人者であり憲法や諸外国の制度に精通し幅広い知識を持ち、ユーモアとウィットに富んだ巧みな話術を使いこなし、国民全体の幸せを探求した日本を代表する論客であった大内兵衛だから実現できたものである。そして大内は三年に一度は泥水につかるとまで言われた三原平野の水害地帯のど真ん中の松帆村脇田で生まれ、淡路島の文化と教育環境の中で育った。戦後を代表するオピニオンリーダーとしての大内兵衛のパワーの源には突然の軍の命令で生家だけでなく故郷まで跡かたなく破壊されてしまったという国家の不条理への反骨精神があったのでは。
 


母校の後輩に残したメッセージ  (松帆小学校)



   大内兵衛生家跡付近  再建された村は無機質な直線の街になっていた

 


消えた故郷


1954年両親の墓参の為、松帆村に帰郷した時のことを兵衛は書き残しているが、そこには『自分の家の跡であろうと思うところにたたずむが、思い出の松や柿の木もなく、知らぬ名の家が2、3ならんでいるだけであった』と書かれてある。三原平野のど真ん中、毎年のように三原川が氾濫し水害の多いところであったが、良田がひろがり水害がおこっても隣人同士が互いに助け合う土地柄。又、父から地域の歴史や家々の物語、田畑の耕作についてまて゛ありとあらゆることを教えられた。築400年の300坪はある大きな家には立派な松が植わり兵衛にとっては御城のような我が家は自慢の生家であった。



三原川に架かる脇田橋 (昭和41年架橋)


父の教え

大内兵衛の父は公共心の強い人であった。そして二つの念願があった。
一つは度々氾濫して水害を起こす三原川の排水路を慶野の砂浜に造り地域を水害から守ることと、一つは脇田から三原川にかかる葬礼橋とも言われ棺桶を担いで人がわたるのがせいぜいで車も大八車も通れなかった小さな丸木橋であった脇田橋の改修であった。どうやったら困っている村人を助けられるかということを常に考えていた父から多くのことを教えられ強く影響を受けて育った兵衛だからこそ国民皆保険や皆年金を推進できたのだろう。氾濫を繰り返し住民を苦しめる三原川と一本の小さな丸木橋が大内兵衛の発想の原点かもしれない。それぞれの兄も郡の書記になったり県会議員になったのは苦しむ人を救ってあげたいという父の影響かもしれない。



水害の村の助け合いの気持ちを制度化した、国民皆保険・皆年金
大きな制度の創設であり、決して個人の力でできるものではない、しかし 日本を代表する経済学者であり統計学の権威が、マルクス主義者として、憲法学者として、人間の生命の尊厳を訴え、弱者救済の理念に立ち、与野党間に構築した幅広い人脈と信頼関係を駆使して、淡路人の自由闊達な物言いで総理大臣にも媚びず、ひるまずに丁寧に粘り強く関係各方面を奔走して信念を貫いて実現させた制度によって沢山の命が救われ、安心して暮らせるという恩恵を今我々は享受している。

淡路一水害の多い村で近隣同士が互いに助け合わなければ生きられない環境で生まれ、淡路島の文化と環境と風土と他者への思いやりの気持ちが大内兵衛を育て、助け合いの制度創設に大きな力を発揮させたとも言えないだろうか。


Google地図に加筆


■協力
脇田地区MさんSさん、高屋地区Mさん
法政大学HOSEiミュージアム

 

■参考文献

私の履歴書

三原郡史

西淡町風土記

※記事内容は取材当時の情報です。詳細は各イベント・施設・店舗までお問い合わせください。

Date:2021.03.04