花マガ(淡路花博20周年記念 花みどりフェアwebマガジン)

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淡路島と鉄道のゆるーいお・は・な・し

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レポーター紹介

投稿者西海岸の住人
性別男性
年代60代
住まい兵庫県洲本市
趣味撮影
自己紹介「あなたの淡路島」を発見する一因になるような内容をお届け出来ればと、何の根拠も無く無責任に勝手に考えております。宜しくお願いします。

●プロローグ  ~はじまりは1枚のこの写真~

2020年初夏、私はこのコロナ禍で引きこもりでは無く、閉じこもりでもなく、巣ごもり生活を余儀なくされ、御多分にもれず時間を持て余していたので今まで撮っていた写真の整理を思い立ちました。

よくもまあこれだけ未整理のものが溜まってしまったものだと自分のなまけ癖に関心(?)しつつも、作業を進めているとふと1枚の写真に目がとまり、そこでしばらく固まってしまいました。

「あれっ? これは!? 」 

それは『淡路花博ジャパンフローラ2000』の美しいデザインのヘッドマークを掲げ、その当時(2000年)今から20年前のJR在来線を誇らしげに走っている電車の写真でした。

今回開催の『淡路花博20周年記念 花みどりフェア』の原点(?)ともいえる20年前の淡路花博関連の写真が、こともあろうか自分の手元からこのタイミングで出てきた事に非常に驚きました。

実はこの写真は意識して写したものではなく、本当に何気なく写していた偶然の賜物(写そうとしていたのは別の列車だった)でした。

もしも淡路島にも鉄道線があって、本州の線路とつながっていたらこの電車は淡路島の会場の近くまで来ていたのだろうか?などと考えているとふと「以前淡路島にも鉄道が走っていたよ」という事を聞いたような気がしたのを思い出しました。

という事で今回『淡路島に鉄道が走っていた』事実をゆるーく(専門的ではなく)お伝えしたいと思います。

 

 

●淡路鉄道株式会社の時代 ~蒸気機関車(SL)が走っていた頃~

まず初めに「淡路島の鉄道と言えばこの人」という人物を紹介しなければなりません。

その人とは、賀集新九郎さん・・・「淡路鉄道株式会社」の初代社長(1871~1942)です。

(碑の文字は右から読んでね!)

この表功碑はもともと旧本社があった宇山駅(洲本市)にあったそうですが、鉄道が廃止になってから彼の故郷である南あわじ市の賀集八幡神社の横に移されています。

彼の実家は大地主でした。彼の父の代から「淡路島に鉄道を」という動きがあったそうですが、時期的に戦争と重なったりしてすんなりと話は進まなかったようです。

当時淡路島は軍事要塞としての重要な役割を果たしていたので、工事に必要な土地の測量一つをとっても制限が有ったり、国の建設の許可がなかなか下りなかったようです。(淡路島の軍事要塞としての重要さは同「花マガ」の歴じいさんによる「淡路歴史探訪」に詳しく説明されているので、もし良ければそちらも併せてご覧ください。)

さらに戦争により物価が高騰し、資金調達が難しくなり度々工事が中断したりして、建設資金が足りなくなると私財をもなげうったそうです。

こんな数々の困難に直面しながらも、なんとか彼と同じ志を持つ他の仲間たちとで、ついに念願の鉄道を淡路島に完成させました。 もしこの人の存在が無ければ、その後の淡路島の歴史は変わっていたかも知れません。

淡路鉄道(のち昭和18年に淡路交通に改称)

洲本~福良間(23.4キロ)

1922年(大正11年11月26日)宇山~市村間 部分開業. 

1925年(大正14年)洲本~福良間全線開通。

1948年(昭和23年)全線電化。

1966年(昭和41年10月1日) 廃止

線路幅 現在のJR線と同じレール幅。

開業以来44年間の間、蒸気機関車⇒ガソリンカー⇒電車と姿形を変えて廃線の最後の日まで淡路島を走り続けました。

1922年(大正11年)開業当時の様子です。

日本で最初の鉄道は明治5年(1872)開通だったので、それからおよそ50年後、淡路島にも鉄道がやって来ました。

小さなSL(1号機・アメリカから購入)を背景にして集合している関係者は皆、時代世相を反映してか無表情ですが、心中はやっとここまでたどり着けたという達成感で感無量だったと思います。

さしずめ今なら、SLの前でみんな揃って一斉に満面の笑みを浮かべて帽子を放り投げ、ジャンプ一番!という所でしょうか。

 

SLはアメリカ製が2両、ドイツ製が2両の全部で4両でした。

その当時、既に海外のメーカーから調達出来るルートを持っていた(?)事が驚きです。

全長はおよそ6メートルの今から見ればかなり小さな愛嬌のあるSL達でした。(ただし形は小さなものでしたが繰り返しになりますけれど、線路の幅は本州のJRの線路と同じ幅で、将来的に四国・本州の鉄道と繋がる計画も有った本格的なものでした。)

 

このSLの後ろに↓の写真の客車をつないで乗客を運んでいました。

これらの客車は全て中古車両で木造です。このSL+客車が当時の淡路鉄道の基本スタイルでした。

 

淡路鉄道(以後淡鉄=だんてつと省略します)が当時、いかに島民に親しまれていたかが解るエピソードを幾つか紹介しておきます。

余談ですが、淡路島では淡路の「淡」の漢字を「だん」と読むケースが有ります。今や世界に羽ばたく上場企業・タイルで超有名なダントーはこの淡路島からです。(もとは淡陶社、現在も本店は南あわじ市で正式名称はダントーホールディングス株式会社)

淡路島の高速道路の北淡(ほくだん)インターは北淡震災記念公園や、今何かと色々な面で注目度赤丸急上昇中の西海岸の施設へ行くにはここが便利。そして西淡三原(せいだんみはら)インターは南あわじの観光に便利です。

 

さて、話を戻してこちら。淡鉄数え歌(作者不詳)です。

内容を見ると、歌詞上では鉄道に対してあまり好意的では無さそうですが、実際は決して淡鉄を批判しているのではなく、むしろ色々な短所を包み込むおおらかさで、逆に親しみを持って歌われていたようです。

三番の歌詞の「長田越え」にあるように、ここ(長田という地名)が淡鉄にとって一番の難所だったようです。どうひいき目に見ても6m足らずのパワフル(?)とは言い難い小さなSLが、おそらく定員オーバー近くになっていたであろう通学通勤時に、あえぎあえぎながらゆっくりと坂を上って進んでいた姿が想像できます。そんな時に乗客の学生たちが自主的に客車から降り、後押しして列車の進行を手伝っていたとの事です。

この取材前まで「鉄道に乗っている乗客が途中で下りて後から押した」という事が、どうしても信じられなかった(あくまでも大袈裟に話を盛っているのだと思っていた)のですが、実際の証言からどうやらホントの事だったようです。

この場所がいかにこの鉄道にとって難所だったかが解る資料が有りました。

これは淡鉄の全路線の状態を記した物の一部ですが、長田から次の廣田間で両方から徐々に線路の勾配が上がっていき、この路線の峠(最高点59.59m)になっているのを見ることができます。

さらに学生たちは、このあたりで列車のスピードが落ちるのが解っていたので、わざと走っている列車より飛び降りたり、再び飛び乗ったりしていたという事です。また友達の帽子を車外に放り投げ、投げられた方は急いでそれを降りて取って再び列車に戻ったりしていたそうで、多くの若者たちが淡鉄を楽しんでいる日常が感じられます。

さしずめ娯楽が少なかった時代だったので、その頃の学生にとっては淡鉄が今で言う所のテーマパークのアトラクション替わりだったのかも知れません。

ちなみに、もし途中でトラブルが発生して時間通りに汽車が到着しなくても、学校では授業の開始を学生の到着まで待ってくれていたようです。

淡鉄に対して島民の親しみを込めた理解(半分あきらめ?)や余裕があったようですね(笑)

 

 

●淡路交通株式会社の時代 ~電車が走っていた頃~

こんな数々の楽しい(?)エピソードをもつ淡鉄ですが、SLより経済的だという理由でその後ガソリンで動くガソリンカーの時代(約17年間)が存在しました。 そして戦後は電化され電車が走ることになります。

会社も途中、他社との幾つかの変遷を経て、淡路鉄道から現在の淡路交通へと変わります。

今回はゆるーい内容の為、詳細は省かせて頂きますが、上記のガソリンカー時代にガソリンに代わる燃料で動くシステムを開発したり、電化時にはガソリンカーを電車として改造をして使用した車両もあったようです(↑)。

この様に、その時々の時代のニーズに対応出来る、独特の技術力を淡鉄・淡交は持っていたようです。

ただし中には「普段バスや船ではめったに酔わなかった人がガタガタと揺れて酔ってしまった」と言う程、改造の結果があまり好ましく無かった車両もあったようです。

仕様の異なる車両が多かったのと、資金面の影響で十分に線路の保守が出来ていなかった結果かも知れません。

 

通勤通学のラッシュ時の様子でしょうか、多くの人が利用している様子が見て取れます。

私は以前、他所で通勤ラッシュを経験していた時、ギューギュー詰めの車内で「こんなに内から圧がかかってこの車両大丈夫か?」という要らぬ心配をよくしていました。

淡路島の当時の車両の中には半鋼製(ドア以外は鉄板、ドアだけ木製)の物も有り、ラッシュ時には木製ドアの部分のみ外側へ膨らんでいたのが確認出来たようです。

 

ここまでは鉄道ネタという事で鉄分(?)だらけでしたが、ここでファッションに関する話題を一つ。

ゴールドのラインが何本か入っている車掌さんのサージの制服が、当時の淡路島の女性に非常に人気があったそうです。それが影響していたのかどうかは解りませんが、車掌さんの仕事が人気で、就職先は「関西電力」か「淡路交通」かのどちらかと言われていた時代があったという話を聞きました。

女性にモテたいという立派な(?)志望動機で車掌になる人がかなりいたそうです(笑)

その時のデザインかどうかはこの写真では判断しづらい(運転士の左隣が車掌さん)のですが、いずれにせよ制服姿でバリバリ仕事をしている人の姿を見ると、いつの時代でも男性女性にかかわらず好感を持ってしまうのは今も昔も変わらない様です。

 

この女子学生たちも車掌さんを見る目がハートマークだったのでしょうか?

 

昭和40年8月に改正された運賃表です。鉄道は翌年に廃止となりましたので、これが最後の改正でした。

私が注目したのは、真ん中の「団体旅客割引率」として301人以上の設定もされている点です。

最後まで淡路交通が地元島民のみならず、多くの観光・団体客を運んでいたのがこの表から伺えます。

 

しかしながら、この年の9月の台風と集中豪雨で線路が各所で寸断され、これが原因で以後半年間全線が不通になるという大きなダメージを受けてしまいました。

この不幸な出来事と、時代の流れだった車の増加が廃止の原因となったようです。

そして翌年、昭和41年9月30日。最終日は淡路島民に対して、今までの利用に対する謝意を表す横断幕を掲げ、終日無料で自由に利用してもらったそうです。

その日の最終便は洲本駅出発時(3時20分)に「ホタルの光」の曲が流されたりして、盛大なお別れセレモニーで見送られその44年の歴史に幕を閉じました。

 

 

●エピローグ ~そして伝説へ~

2020年初冬、洲本~福良間はその使命を引き継いだ淡路交通のバスが今日も運行されています。人口減少により経営環境は今後さらに難しくなりそうですが、いつまでも島民の足として、とりわけ交通弱者の味方であって欲しいです。

(ちなみに、この「花マガ」にフレッシュな感覚で現在の福良~洲本間の「バス旅」をレポートしている武政彰吾さんの記事も有りますので、併せてご覧頂ければ幸いです。)

 

今回全体的にモノクロ調だったので、最後に少し「花マガ」という事で「彩り」を加えておきたいと思います。

という事で、手元に残っていた20年前の「淡路花博」のヘッドマーク付きの残りの写真を一挙にどどっと。

あの20年前の感動を再び!!

 

「そうだ、淡路花博20周年記念 花みどりフェア、行こう。」

(※↑全て2000年当時の写真です。決して現在のものではありませんのでご理解下さい。)

 

 

※ご協力 お忙しいところどうも有難うございました。

淡路交通株式会社

淡路文化史料館

淡路島くにうみ協会

武田 信一 先生

兵庫県土木局

野水 正朔 さん 

山口 勉 さん

 

※参考文献・資料

淡路島・洲本川流域読本 兵庫県土木局

淡路島の20世紀 海と陸の交通 淡路文化史料館

創立五十年並鉄道全通四十年の歩み 淡路交通

鉄道ファン1999年4~6月号 交友社

兵庫県の鉄道 野沢敬次著 アルファベータブックス

(以上50音順)

※記事内容は取材当時の情報です。詳細は各イベント・施設・店舗までお問い合わせください。

Date:2020.12.01