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【淡路歴史探訪】その3 神様を支えたファミリー 浦

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レポーター紹介

投稿者歴じい
性別男性
年代50代
住まい兵庫県淡路市
趣味読書(司馬遼太郎など)
自己紹介淡路生まれの淡路育ち。歴史好きで戦国時代以降、明治の近代化までに興味があります。あまり光の当たっていない「淡路島の歴史や人物」をご紹介できたらと思っています。

神様を支えたファミリー  浦​

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中国近代化の父も頼った神様

現在では『経営の神様』と言えばだれを指すのだろう。稲盛和夫や孫正義、三木谷浩史などの各氏の名前があがってくるのだろうか。昭和のころなら圧倒的に、松下電器(現パナソニック)を一代で築き、世界的な大企業に育てた、日本の高度経済成長のシンボルのような松下幸之助氏の名前を多くの人があげた。

 1978年に中国の指導者、鄧小平は何度もの失脚の後、奇跡的な復活を遂げ実権を握ると来日を果たす。
『井戸を掘ってくれた人の恩を忘れない』とロッキード事件で被告となっていた田中角栄邸を訪れたり、新幹線のスピードや自動車工場のロボットに驚いたことは有名だが、その時、中国側の希望によって、電撃的に大阪の「松下電器」を訪問している。そして松下幸之助氏に会うと『あなたは経営の神様といわれているらしいが、神様なら中国の人民を豊かにしてもらえないか』と発言している。

現在は世界第2位の経済大国となっている中国も当時は世界でもっとも貧しい国の一つに数えられインフラも全く整っておらず、業界も社内からもリスクを考え反対する声か強かった。幸之助氏は粘り強く根気よく説得を続け、資金も設備も多くがパナソニックの持ち出しとなる中国側に有利な破格の条件でカラーブラウン管工場を中国に建設する。ラジオも白黒テレビも行き届いてない国であったが「カラーテレビによって世界の発展している姿を国民に見せてあげたい」という鄧小平の思いであった。

そしてその工場進出が口火となってインフラが全く整っていない貧しい中国への世界からの投資がはじまった。現在の中国発展をみるとき松下幸之助氏の先見性と決断力のすばらしさを感じる。

1987年9月に設立したカラーブラウン管工場{北京市}※パナソニック株式会社提供

 

 

神様を支えたファミリー

そんな世界が認める神様も、若かりし頃は貧しく、無学で病弱で、孤独なかんしゃく持ちの天才でしかなかった。幸之助氏は、両親も、八人いた兄弟も、姉一人を残し全員夭折し、支えてくれる人もなく、周りからも長生きはできないだろうとみられていた。

そんなどん底の幸之助氏の運命を変えたのは淡路島の浦村(現淡路市・浦)出身の妻むめのとその弟達だった。いくら10年先、100年先を見とおすことができ、大衆の心が読める神様がいてもそれを信じてどこまでも支えてくれる人がいなければ夢で終わってしまう。苦労を苦労とせず『難儀やな』とちょつと困った程度にしてしまう陽気で働き者で、自分を信頼してズバズバと遠慮なく叱咤激励してくれる家族を手に入れた。どこまでも明るく支えたのは、「屈託のない淡路人気質を持ったファミリー」であった。

 

松下幸之助      井植歳男       松下むめの

※パナソニック株式会社提供

 

大阪鶴橋で4畳半と2畳の二間のボロボロの長屋で電球のソケットの製造販売を始めるが、なかなか軌道にのらず、一緒に参加してくれた友人2人も去っていった。絶望の日々を支えたのは淡路島の義母が送ってくれる米や野菜と、妻のむめのと小学校を出たばかりの14歳の義理の弟、井植歳男(三洋電機創業者 )だけだった。

 

 

東京出張所 (左 井植歳男)※パナソニック株式会社提供

 

              井植歳男     松下幸之助   ※パナソニック株式会社提供 

 

歳男は幸之助の生み出した二股ソケット(二灯用クラスター)や自転車用ライト(砲弾型ランプ)などのヒット商品の販路を広げるため、病弱な兄に代わって、東京出張所の責任者として会社発展の為に奔走した。歳男が営業面での才能を発揮できたのは父親譲りの淡路人の気質だろう。

むめの や歳男の父の清太郎は裕福な自作農でありながら農家を好まず、船を持ち海運業を営んでいた。淡路島の海運業は江戸時代の豪商・高田屋嘉兵衛でもわかるように、情報を駆使して港々の需給や相場から予想を立て物資を提供する「海の商人」であり、日本全国を市場にしたあらゆる物を扱う海の総合商社であった。13歳で父を亡くした歳男も父に憧れ、船乗りを志した少年であった。後年、大磯港を新築しフェリーボートを就航させたり、自らおこした会社の社名を三洋電機としたのは海や船、そして船乗りであった父への憧れからだろう。しかし海の仕事は危険が伴うため、心配する母を安心させるため船乗りを諦めた歳男は、大阪へ出て姉夫婦を手伝うこととなった。

そして歳男の弟の祐郎(三洋電機第二代社長)や薫(三洋電機第三代社長)も松下電器に入社し幸之助を助けた。孤独な天才であった松下幸之助は井植むめのと結婚したことにより、怖いもの知らずの命知らず、どんなことにもチャレンジする行動力のある、自分とは対極の「たくましい海の男達」をファミリーにもって要所を任せ、事業を拡大発展させていった。

会社と自宅が一緒であった創業から15年ぐらいは幸之助氏とむめの夫人とはよく言い争っていたという。よく働く がその分、自分の意見もはっきり言う人であったらしい。敬語のない島とも言われる淡路島のおばちゃんパワーが松下家でも炸裂していたものか。松下電器の創業50年の記念式典では7,000人の社員、来賓が詰めかける会場で幸之助氏はむめの夫人を壇上に挙げ『奥さん、長い間ありがとう』と感謝の気持ちを表した。貧乏を苦労と思わず、『難儀やな』とちょっと困った程度にしてしまう婦人が、もう一人の創業者と言われる由縁だ。

 

松下幸之助、むめの夫妻  ※パナソニック株式会社提供

 

戦後、松下電器は軍需産業とみなされ、幸之助は企業活動に財閥指定など厳しい制限を掛けられた。運転資金の枯渇によって、税も滞納するなど存続の危機を招いた。幸之助や井植歳男をはじめ、幹部も公職追放の指定を受け、これをきっかけに相次いで幹部社員達が辞めていく。歳男も会社を辞め、三洋電機を設立した。

幸之助から北条工場を格安で賃借し、主力製品の一つである自転車ランプにナショナルブランドで販売することを許され、幸之助は歳男に松下電器の主力工場であった北条工場(兵庫県加西郡)を好条件で賃貸し、主力製品の一つであった自転車用ランプに「ナショナル」の商標で販売することを許可しました。13歳で父を亡くし小学校しかでていなかった井植歳男にとっても松下幸之助との出会いは父親代わりとしてでなく経営者として思想家として世界的な最高の師を得ることができた。

 

三洋電機とし て再出発した井植兄弟は、洗濯機や電池など新商品を次々ヒットさせ会社を発展させた。井植歳男は故郷淡路島をこよなく愛し、郷土発展の為、周囲の反対を押し切り三洋電機の洲本工場を建てるとともに、明石大橋架橋に熱心に取り組んだ。

しかし橋の建設には何年もかかる。それまで島の発展を先延ばしできない・・・と個人の事業としてフェリーボートを就航させ利便性をたかめた。さらにゴルフ場を開き、地域発展のため尽力した。地元の人は今でも歳男のことを『とっしゃん』と親しみをこめて呼んでいる。


井植敏夫像
井植歳男彫像(井植記念館・垂水区青山台)

井植家

井植邸 (淡路市・浦)


井上公民館

井植歳男は昭和37年に行政に先駆けて青少年教育、郷土の社会教育の発展のため地元に公民館を建てて寄贈した 『井上公民館』



東浦中学井植体育館
歳男が寄贈した東浦中学校の『井植体育館』

大磯港

歳男が淡路島の利便性を高めようと、フェリーボートを就航させるために造った大磯港



浦港
むめのや歳男の父、井植清太郎が廻船業を営んだ清光丸の母港、浦港。

病弱で孤独な天才をどこまでも支えたのは陽気で前向きで義理人情に厚い海辺の民であった。
 

 

◼︎映像提供

  パナソニック株式会社

◼︎参考文献

    神様の女房

    三洋電機社史

※記事内容は取材当時の情報です。詳細は各イベント・施設・店舗までお問い合わせください。

Date:2021.01.12